東京都中野区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 堀江家第一墓所 所在地 中野区中央2-33-3 (宝仙寺) 堀江家の起りは明らかではありませんが、12代重賢(しげかた)の徳川幕府への届出書によれば、越前(福井県)から同家の先祖、兵部(ひょうぶ)という人が農民10数人とともにこの地に来て、弘治元年(1555)中野の開発に着手したとされています。 当時、関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられ、歴代の当主は、中野村の名主として中野とその近郷の有力な指導者となりました。 堀江家がはたした業績によって、中野村はしだいに発展していきました。その間の村政及び幕府との関係文書は、現在「堀江家文書」として東京都立大学に保管され、研究に供されています。 堀江家は、将軍鷹場の村むらへの御用触次、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人のほか、江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しましたが、明治以降も中野の町村政のためにはたした業績はまことに大きく、現在の中野区の発展の礎となっています。 中野区教育委員会 明王山 宝仙寺 堀江家第二墓所 PR |
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永山
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