東京都中野区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 中野区中央2-33-3 真言宗 豊山派 明王山 宝仙寺 武州多摩郡中野明王山聖無動院宝仙寺縁起によると、宝仙寺は、平安後期の寛治年間(1087~1094)、源義家によって創建されました。このとき義家は、奥州・後三年の役(1083~1087)を平定して凱旋帰京の途中にあり、陣中に護持していた不動明王像を安置するための一寺を建立したのでした。 その地は、父頼義がかつて祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷の地で、この造寺竣成の時、地主稲荷の神が出現して義家に一顆の珠を与え 「この珠は希世之珍 宝中之仙である 是を以って鎮となさば 則ち武運長久 法燈永く明かならん」 と言いおわるや、白狐となって去りました。 これにより山号を明王山 寺号を宝仙寺と号したと伝えられています。 本堂 <本堂> 鎌倉期の不動明王を中心に五大明王像が安置されている。 <御影堂> 脱活乾漆技法による、弘法大師の尊像が安置されているお堂。 <三重塔> 再建された飛鳥様式の純木造建築の塔で、内部には大日如来像をはじめとする五体の木像が安置されている。 <大師堂> 斎場としても使われる教化活動のお堂。 <大書院> 寺務室と仏事法要等に使用される。 <山門(仁王門)> 阿・吽一対の仁王像が納められた山門。 <臼塚> 供養のため噴水として積み上げた石臼。頂上のものは昔、甘酒をすったもの。 <六地蔵と見送り地蔵> めずらしい見送り地蔵と六地蔵が並ぶ。 <中野町役場跡碑> 明治36年(1903)から昭和初頭まで中野町役場が、また区役所が境内に置かれた。 <宝仙寺歴代住職の墓所> 五輪塔が立ち並ぶ、代々の住職の墓地。 境内墓地には『堀江家墓所』があります。 PR 所在地 中野区中央2-33-3 (宝仙寺) 当寺の三重塔は寛永13年(1636)に建立された塔が飛地境内の塔ノ山公園(現在の中野区区立第十中学校)にありましたが、昭和20年の戦 災で焼失致しました。 平成4年(1992)の興教大師850年御遠忌記念として再建されました。 この塔は焼失した塔とほぼ同じ高さの約20mで奈良法起寺に範をとり飛鳥様式の純木造建築で心柱は基壇まで貫通しています。 塔内には大日如来を中心とした胎藏界五佛が安置されております。 明王山 宝仙寺 所在地 中野区中央2-33-3 (宝仙寺) 御影堂とは、弘法大師の御影すなわちお姿を安置してあるお堂のことです。 このお堂は三間四方の純木造建築です。 このお堂に安置してある日輪弘法大師像は脱活乾漆という漆と麻布で作られており、この技法でこのような大きな佛像は壹千年以上も絶えて作られておりませんでした。 この弘法大師像は座像で高さは後背までいれて約3mです。 明王山 宝仙寺 所在地 中野区中央2-33-3 (宝仙寺) 中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。 そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。 その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。 それを見て当山、宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正(宝仙学園創立者)が、人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。 平成18年(2006)12月吉日 献額 中野区商店街連合会 社団法人 中野法人会 堀江家第一墓所 所在地 中野区中央2-33-3 (宝仙寺) 堀江家の起りは明らかではありませんが、12代重賢(しげかた)の徳川幕府への届出書によれば、越前(福井県)から同家の先祖、兵部(ひょうぶ)という人が農民10数人とともにこの地に来て、弘治元年(1555)中野の開発に着手したとされています。 当時、関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられ、歴代の当主は、中野村の名主として中野とその近郷の有力な指導者となりました。 堀江家がはたした業績によって、中野村はしだいに発展していきました。その間の村政及び幕府との関係文書は、現在「堀江家文書」として東京都立大学に保管され、研究に供されています。 堀江家は、将軍鷹場の村むらへの御用触次、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人のほか、江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しましたが、明治以降も中野の町村政のためにはたした業績はまことに大きく、現在の中野区の発展の礎となっています。 中野区教育委員会 明王山 宝仙寺 堀江家第二墓所 |
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