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東京都中野区の歴史
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所在地 中野区新井5-4



 表忠碑
    陸軍大将 一戸兵衛 書


所在地 中野区新井4-14



  < 御祭神 >

 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
 保食神(うけもちのかみ)

  < 例祭日 >

 9月 第3土・日曜日







 境内には『力石』、『撫で牛』、『稲荷神社』、『大鳥神社』があります。


所在地 中野区新井4-14 (北野神社)

御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)

祭礼日 11月酉の日(酉の市)



所在地 中野区新井4-14
 (北野神社)

御祭神 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

祭礼日 旧初午(旧暦2月最初の午の日)


所在地 中野区新井4-14  (北野神社)

  撫で牛

牛は天神様の「おつかい」です ご自身の悪い所(良くなりたい所)を撫でて下さい 北野神社


所在地 中野区新井4-14 (北野神社)

  力石
 この石碑の周囲にめぐらされている13個の大きな石は「力石」といって、昔、若者たちが力くらべに使ったものです。今日とは違い、娯楽の少なかった時代には、神社の祭礼は人々の最大の楽しみでした。祭りの日、若者たちは大きな石を頭上に高くかかげて、その力を競い合い、持ち上げた石に重量や姓名を刻んで奉納したものです。
 刻まれている銘文からは、新井村や上高田村から集まった若者たちが、38貫目余(約143.5キログラム)~70貫(262.5キログラム)までの石を持ち上げ、
奉納したことがわかります。
 力石の行事は、娯楽の面だけではなく、その多くが神社の境内にあることからも、本来は神事儀礼であり、また、重い石を持ち上げることにより一人前として社会に認められた、当時の通過儀礼のひとつでもありました。
 昭和59年(1984)3月  中野区教育委員会



梅の花 
 匂ふあたりの
      夕くれは 
 あやなくひとに 
  あやまたれつつ


 作者大中臣能宣朝臣(なかとみのよしのぶあそん)
    (延喜21年〔921〕~正暦2年〔991〕)


所在地 中野区新井5-3-5 

 新井薬師


真言宗豊山派 

新井山 梅照院 薬師寺

本尊 薬師如来と如意輪観音表裏二佛一体

札所 御内府八十八ヵ所霊場第七十一番札所

開山 天正14年(1586)新田義貞の家臣

開基 僧行春(元北条家家臣梅原將監)



 境内には『白龍権現水屋』、『本堂再建供養塔』、『プリンセス雅』、『十六歳聖徳太子像』、『新東京百景の碑』、『豊川稲荷』があります。

















所在地 中野区新井5-3-5 (新井薬師)

この後尊像は 聖徳太子御歳16才のお姿にて聖徳太子の遺訓を仰ぐため 組合員鶴谷善平氏が 昭和34年10月5日より多忙の寸暇をさき 意に満つるまでの一念に折りをこめて制作したるものなり
中野支部の協力のもとに梅照院の御協賛と後援によりこの場所に建立せるものなり 思うに戦後建築職人の技能の低下が嘆かれ特にわれわれ左官職も稍もすると技能を軽んじ社会的にも軽視されがちな傾向多々ある今日鶴谷氏これを大いに憂い技能者養成指導員の技術に対する重要性の再認識と次代をになう後輩諸氏が聖徳太子の遺徳を遵じ奉ると共に技能の向上を促す念願にて制作せるものなり 左官技能者も氏の如き頑固なる政策熱意あらば 鏝1丁にて斯くの如き気品髙き御尊像制作かのうなるを如実に示せり願わくば同職各位におかれても上述の意を参考にされ益々技能練磨と新人育成に努力し業界発展の資に供せらるれば甚だ幸なり
新井山梅照院の語厚志と鶴谷善平氏の意思を讃え茲に由来を記するものなり
 昭和35年(1960)4月5日
東京都左官職組合連合会中野支部 飯田圭市 謹書



所在地 中野区新井5-3-5 (新井薬師)

  プリンセス雅

此の桜の木は平成5年(1993)6月9日に 皇太子妃・雅子様御成婚記念として新種の桜の木をプリンセス・雅と名称登録された銘木です。
平成13年(2001)12月1日敬宮愛子様ご誕生をご慶祝申し上げ此処に植樹をいたしました。

かすみ立つ
 のぼる旭に
  かがやきて
みやびゆたかに
      花の路

                 窪寺 登 植樹

平成13年(2001)12月吉日 中野通り桜祭り実行委員会建立


所在地 
中野区新井5-3-5 (新井薬師)

 東京都では『都民の日』制定30周年を記念し新東京百景を選定され、古刹とし当山新井薬師は昭和57年(1982)春都民多数の投票に依りめでたくも新東京百景第17位に入選す 仍って茲に新井薬師奉賛会は初代会長衆議院議員高橋一郎氏の斡旋による都知事鈴木俊一氏の揮毫を得、会の浄財を以ってこの記念碑を建立す

 昭和62年(1987)4月吉日
 新井薬師 奉賛会一同  貫主 智英代
 


所在地 
中野区新井5-3-5 (新井薬師)




  白龍権現水屋建立之記

 新井の地名の由来は古文書『新井埜草別調べ』によれば「名水湧き出でたる故に村名を新井と名づく」とあり この地は名水随所に湧出せしが時代と共に次第に減じ都市化の進展に伴い名井ことごとく枯渇し新井の由来を知らすべき証し全て消失せり
 当山梅照院の瓢箪池(新井薬師公園)もその昔冷泉滝の如く水坮り場として修行の道場となせり 故に「垢■不動明王」を安置し尊信す 白蛇常に不動明王のお傍にありて守護するが如し しかるに公園造成以後は冷泉の涌出も絶えたるにより窪寺伝吉氏が昭和35年に境内に■不動明王堂を建立霊験灼然として今に多くの信宗をあつむ
 白蛇の令を供養せんと貫主智英僧正発願せられ龍王のおすがたに三十三之宝珠を奉ずる石像を刻明王の使者白龍権現として不動堂に祀る
 この度等大悲殿の建立のおり地下二米程の處に御影石の上蓋に保護されたる大井戸をはっけんす 涌き出ずる水清洌にして名井の出現を見たり これぞ権現の導きなりと貫主その瑞祥を奉戴す
 一夜夢枕に不動明王現れ「大悲殿に聖観卋音菩薩を迎えて井戸の冷泉を閼伽水として衆生に施さば即ち利益増長 抜苦■楽せん」と告げ給う この霊示により同信を募り島根琴次郎、相原新吉両氏と共に双竜を鋳造して水屋を建立す 
功徳の霊泉 末永くあらんことを祈念する

 昭和60年(1985)4月吉日 発願人窪寺克己 記


所在地 中野区新井5-3-5 (新井薬師)

  本堂再建供養塔
 この塔は、梅照院(新井薬師)の再建に尽した住職運樹の業績と信徒の信仰心にこたえるため、安永8年(1779)後継者の英俊が高野山延命院の引導地獄尊を模して建立したものです。
 碑文によれば、
「梅照院は、天正14年(1586)行春が建てたことに始まる。本尊の薬師仏は弘法大師の手刻といわれている。住職が薬師仏のお告げでつくった小児の妙薬(夢想丸)は、どんな難病にも効能があった。延享元年(1744)運樹が住職に迎えられると御利益が広まり、いっそう寺運が盛んとなった。明和元年(1764)寺院が焼失した。老僧運樹は直ちに仮仏殿を造り、さらに本堂再建の大願をたて、趣意書を示して広く喜捨を募った。しかし明和4年(1767)本堂の建立をまたず75歳で没した。あとを継いだ英俊は、10年以上も苦労の末、安永8年(1779)の春、ついに本堂の落成に至った。」
ことが記されています。

 昭和56年(1981)3月  中野区教育委員会


所在地 中野区中野

 犬屋敷は、5代将軍徳川綱吉が設けた幕府の野犬保護施設で、犬を囲って飼育したことから「お囲い御用屋敷」ともいいました。中野4丁目あたりの旧町名「囲町」はこれに由来します。
 綱吉は「生類憐みの令」によって殺生を禁じ、特に犬の保護策を強行して、江戸郊外の中野に最も大規模な犬屋敷を造らせ、支配役以下多数の役人や医者を置いて、野犬の飼育にあたらせました。
 犬屋敷は元禄8年(1695)末に収容を開始し、綱吉の死去により宝永6年(1709)に廃止されるまで、15年間存続します。敷地は現在の区役所を中心に国電中央線をはさんで約30万坪(100ヘクタール)に及び、5つの大囲には、各数百棟の犬小屋・餌場・日除場・子犬養育場があって、最盛時には8万数千頭、飼料費は年額9万8千両にも達しました。その後、幕府は方針を変えて、めす犬の収容を主体とし、他は近在の農家に養育料をつけて預けることにしました。犬屋敷の莫大な費用は、江戸の商家や天領の農民たちの負担で賄われました。

         史       跡
   表題  東京都中野区長 上山輝一書
古来中野後は武蔵野の中央に位する意と新編武蔵風土寄稿に述べられ、慶永年間(1400)に紀州の人鈴木九郎正蓮がこの地を拓き、文明9年(1477)4月には太田同感が江古田原に豊島氏と戦い、これを破って江戸築城の基を開いた。永禄年間(1560)の小田原衆所領役帳には、中野内正歓寺、阿佐谷、大場などの地名があり、本郷、雑色、江古田等を抱合した今日の中野区の先駆が既に見られる。
この地は江戸初期より将軍、大名の鷹狩の地として著名であり、元禄8年(1695)には5代将軍綱吉が「生類憐みの令」を出して犬小屋を設ける多数の犬を飼育し、次いで享保20年(1736)8代将軍吉宗はこの地の景勝を賞して桃園を経営せしめ、御立場、大名山等を設けて江戸士民遊歩の處とした。降って明治29年(1896)に中野電信隊、鉄道隊、気球大河創設され、次いで陸軍中野学校が設置せられた。特に電信隊は永く存して我国電信技術の発達に貢献する処大であった。
昭和20年(1945)8月15日第二次世界大戦の終結にともない、一時進駐軍の駐留するところとなり、これが撤収の後、警察大学校の設立ありたるも、その後この地は中野区発展の要衝とすべしとの衆議に応え、同校の移転跡地のうち、その一部は庁舎建設用地として中野区有地となし。昭和43年(1968)10月5日本庁舎落成とともに、中野区政中核の地と定められた。
 昭和43年(1968)10月5日
  東京都文化財専門委員 稲村坦元撰 郷達殖謹書


所在地 中野区野方3-7



 庚申塔には、大洋と着き、青面金剛、3匹の猿、にわとりなどが彫られています。
 この付近の人々31人が建立したもので、石の側面には享保二十一丙辰天3月吉祥日(1736)と彫ってあります。台石には「右中村道 左さぎのみや道」と記され、道標の役をはたしていました。



 地蔵尊は、延享元年(1744)9月建立されたもので、沼袋村の矢島亦右衛門のほかに、とめ、多よ、いちなど女性の名前が記されています。台石
には、秩父、坂東、西国の観音霊場百ヶ所をめぐり、長寿福楽と来世での安穏を願った旨の文字が読みとれます。



 二十三夜の碑は、昔、このあたりで疫病がはやったことがあり、祈祷師から以前にこの地にあったはずの二十三夜塔を再建するようにとのお告げがあり、関係者8人によって昭和2年(1927)に建てられたものと伝えられています。

 平成12年(2000)5月   中野区教育委員会


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